役に立つことってそんなに大事なのかな?

先日、博多を訪れたときに、時間があったので太宰府天満宮に行ったんだけど(目的は参道の隈研吾デザインのスタバ)、その近くに九州国立博物館があったので行ってみた。

で、いろんな展示品を観たわけですが、一番印象に残ったのが、縄文時代の出土品。

3万5千年前~紀元前4世紀という遥か昔の人々の使用していたモノがたくさん並んでる中に、アクセサリーがたくさんありました。

また、土器にも様々な形があったり、模様の流行があって面白かった。

それを観たとき、人間って、太古の昔からファッションとかデザインとか美しいものが好きなんだなと感動したというわけ。

役に立つ、役に立たないという視点で見ると、生きていく上で必ずしも役に立たないファッションやデザイン(一概には言えないけど細かいところは置いといて)は、すごく意味があるものなんだと再確認しました。

というわけで、「役に立つ」ということについて考えてみます。

ひとは子供の頃から、世の中の役に立つ人になりなさいとか言われて、役に立つかどうか?という価値基準を刷り込まれがち。

そういえば、僕自身、中学生の頃、父親に「イラストレーターになりたいから美術系の大学に行きたい」と言ったら「美術系の大学なんて行ったってせいぜい美術の先生になるくらいで役に立たないから普通の大学に行け」と言われたなあ。
(で、結局普通の大学に行った後、紆余曲折を経てデザイン関連の仕事をしてるのだから世の中面白い)

閑話休題。

だけど、縄文時代の出土品を観ても、本来、人間は役に立つかどうかより、意味(自分にとっての)があるかどうかが大切な生き物なんだろうな。

そうでないと、フェラーリが売れたり、1000万円のウイスキーが売れたりはしないはず。

そう言えばCMで「モノより思い出」というのがあったけど、まさにスペックより意味が大事。

僕はデザインの仕事をしたりカフェを経営したりしてたときから、「僕は、生きるためには必要ないけど、人生が豊かになる仕事をしてる」と考えたり話をしたりしてたことを思い出した。

栄養を摂取するだけなら必要ない(むしろ健康面ではどうなの?という)、コーヒーやスイーツを味わいながら気のおけない友人とまったりおしゃべりする時間は、幸せを感じることができる。

そういう意味では、病気の原因の多くがストレスだとすると、コーヒーやスイーツも健康にいいとさえ言えるかも。

あるコンサルタントの方が「ブログを書くときは、役に立つ記事を書かないと意味がない」みたいなことを書いていたのを読んだことがあるけど、役に立たないとダメだと思いながら書いてる記事より、面白かった経験や趣味の話の方が興味を持たれたり共感されたりするんじゃないかと思う。

僕はたくさん本を読んだり映画を観たりするけど、役に立つからとか、役に立てようとはぜんぜん思ってなくて、ただ興味があるからとか、面白そうだからというだけ。

その証拠に、ほとんど覚えていない。(ってなんの自慢やねん!)

仕事でも一緒。

誰かの役に立たなくてはいけないとがんばるよりも、誰かにとって意味や価値があればいいんだと考えたら、少し気が楽になりませんか?

あなたが「仕事の役に立たない」と思ってるモノやコトが、誰かにとっては意味や価値があり、結果として役に立つことってたくさんあるんじゃないかな。

ちょっと話がそれるけど、自己啓発系の本とかで、お金を使うときに「投資」なのか「浪費」なのか考えましょう的な話がありますよね。

投資として何かしらのリターンがあるもの(役に立つもの)だけにお金を使うことを勧めてるんだと思うけど、僕はそういう考え方は好きじゃない。
(お前が浪費好きなだけだろ!というツッコミはなしでお願いします)

歴史をみても、浪費が文化を創ってきたのは明らかですしね(知らんけど)

再度閑話休題。

これから、いろんな仕事がAIにとって変わられるかもしれないなんて言われてますが、そんな時代だからこそ、役に立つことよりも、一見無駄なこととか、非生産的、非建設的みたいなことの価値が高まってくると思う。

ちなみに、僕なんか、AI時代の到来は「役に立つことはAIに任せて、役に立ちそうもないことに集中できるなんて素晴らしい時代の幕開けだ」と喜んでますから(笑)

なんだかとりとめのない話になりましたが(いつもだけど)、そんな考えもあるんだなと思ってもらえるだけでけっこう。

僕の仕事はアイデアを考えることで、そのために視点を移動させることが大事だと常々言ってますが、今回の記事を読んで「何言ってんだこいつ!」と、視点を移動していただけたら幸いです。

九州国立博物館に行ったときの記事はこちら。
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